パソカレッジ起業秘話(13)

12話で2003年10月にFCの第一号が開校したと書きましたが訂正致します。

2002年10月「パソカレッジ香里園校」
2003年7月「パソカレッジクラブ西村教室」
2003年10月「パソカレッジ鴻池新田校」
2004年2月「パソカレッジクラブ拝島校」
2005年1月「パソカレッジクラブ荻窪校」
     3月「パソカレッジクラブ大分校」
     5月「パソカレッジクラブ宝塚校」
     10月「パソカレッジクラブ久留米校」
2006年1月「パソカレッジクラブ浅草橋校」が開校致しました。

この「パソカレッジFC」と「パソカレッジクラブ」の違いですが現在募集しているのは「パソカレッジクラブ」の方です。
小資本で少リスクで開校して頂きたいと考えたFCが「パソカレッジクラブ」です。パソコンの台数も5~6台まで。

パソカレッジFCですが今は香里園校も鴻池新田校もありません。
大きな資本を掛けてパソコン教室を開く時代は終わったと言えるかも知れません。

今、シニアの方たちが求めているパソコン教室は家庭的な雰囲気・優しさを持った教室ですね。

パソコン教室の市場としては未だまだ有ると考えています。
50歳代以降の年代の方にはパソコンが全く使えない方、少しは出来るが本質的な部分がわかっていない方が沢山いらっしゃいます。

最近ブログを友人に勧めていますが、パソコンが其処まで使えない人が圧倒的に多い事を知りました。
周りに使える人がいたから使わなくて済んだ、と言う方が多いのです。

第一陣の波は目白校立ち上げの時に通われた方達ですが、第二陣.第三陣の方達が待機しているような感じですね。

それ位シニアの方達は、新しい事に対して慎重と言うか臆病です。

後から背を押してあげる役目の教室が必要とされています。

此処数年、新聞やTV・雑誌などでパソカレッジがシニア向けのお教室である事を取り上げて頂いています。
世の中、シニアの方達の動向が気になるようです。シニアが楽しく通える教室と言う事で、パソカレッジは関心を持たれているようです。

2003年5月20日。マミコは父の元から独立しマミオン有限会社を立ち上げました。
一国一城の主になったマミコですがitoitoは同じ日の朝、離婚届を提出いたしました。

一口に言いますと経営者の夫と現場監督のitoitoの考えが違って来たと言うことが原因でした。
「熟年離婚」と言う言葉を耳にする昨今ですが、ハシリと言えるかも知れませんね。(苦笑)

父からマミコの新会社への出資はなく、会社の登記もインターネットで調べながら致しました。教室の近くに借りた事務所で当日の夜はささやかな事務所開きをしましたが、この日を境に実質的に「母と娘の起業」が始まる事になります。

教育の現場は営業や理屈では解決出来ないものがあります。
人には「心」が存在しますから・・・

パソカレッジ企業秘話(12)

寝不足です。今朝は早くからTVの前に釘付けになりました。フィギュアのフリーを見る為ですが。

夫は昔「人を残すは上、物を残すは中、金を残すは下」と言う言葉を申しておりました。

スポーツは記録も残しますが、観る人の記憶に残ります。
そう言う事ではとても素晴らしい事だと思います。

企業が残すものはお金であり、物ですが、そのお金の中から選手を育てると言う事になります。企業あってこその選手育成です。

良い施設・良い人材に投資を惜しまない企業になれるよう頑張りたいとオリンピックを見て感じました。

その人材について再度書いて見ます。

パソカレッジのスタッフは学生が多いと書きましたが、超初心者の方たちをお教えするのであれば、資格を振り回すインストラクターより、優しい孫のような感覚での学生インストラクターの方がお互い上手く行くのではと、マミコの若い感覚で始めました。

これは正解だったと思います。

只、中には家庭教師に毛が生えたような学生に教えられるのは、トンでも無いと思っていらっしゃる方もいますね。

初期の頃ですが、或る女性のご年配の方が、当方の信頼できる学生アルバイトT嬢に向かって
色々プライベートの事を聞き出して来ました。

その頃のスタッフ用マニュアルの中には、こんな風に聞かれた時の答え方なども用意してありました。

1.「職業は?」ときかれたら素直に「学生です」と答えましょう。
2.「経験年数は?」ときかれたら、「適当に誤魔化しましょう」と書いていました。(笑)

今の生徒さんでそんな質問をする方はありません。
そんな質問を出せるような雰囲気がないからですが。

或る妙齢の女性はT嬢に「貴方バージン?」と聞かれたとか、頭の良いT嬢は鋭い切り返しで真っ向勝負に出ました。

その女性は最後の切り札のような捨てゼリフで「貴方のような頭が良い女性は、得てして結婚出来ないものよ。女性は可愛くなくっちゃね」と。

色んな方に通って来て頂いていますが横綱格の記憶に残る生徒さんです。

学生達は採用が決まった時点から研修に入って鍛えます。
資格は持っておりませんが柔軟な頭と、吸収力で物の見事に期待に応えてくれますし、多く採用したバイト生の中で残る学生は優秀な者だけですね。

そんなスタッフがパソカレッジの財産です。

何を聞かれても答えられると言うのも優秀なればこそです。

若い学生と、ご高齢の生徒さんのやり取りを見ていて「異世代交流会」を思いついたのですが。

2003年7月には「第1回異世代交流会」を開きました。
若い方たちにはシニアの豊かな経験話を聞いて欲しい。中高年の方達には今の若い方たちの仕事に対する考え方、物の見方、IT業界の様子など普段見聞き出来ない部分を大いにお互い語って欲しいと思った訳です。昨年7月には3回目を開きました。

そしてこの年の10月念願であったFC(フランチャイズ)が第一号が大阪・香里園に開校になりました。

次はFCの行方・新聞で取り上げられ始めた事・マミオン(有)の独立について書いてみます。

パソカレッジ企業秘話(11)

高田馬場・目白の2校の運営に東奔西走するマミコでした。
2003年4月始めての教室のイベント「デジカメ遠足」を試みて見ました。

デジカメの使い方を教えて欲しいと言う声は早くから上がっていたのですが、メーカーによって機能の違いがあり超初心者にどのようにお教えするかと言う事に悩んでいました。

それでも世の中、量販店の店頭に立ち並ぶお兄さま・お姉さまはデジカメのメーカーの販売員が殆どです。

「クラス会に行ったら皆んな液晶画面を見て撮るカメラだったわ」と妻が言うんですよ。「何処のメーカーを買ったら良いですか?」撮り方を教えて欲しいと懇願される生徒さんも続出。そんな日が続き始めました。

そんなこんな時、卒業するスタッフのお別れ会に「韮山のイチゴ狩り」に行きました。その時撮った写真を元にテキストを一気に作り上げました。

パソコン上で編集・その他の取り入れなどはお教えできるのですが、如何すれば良い写真が撮れるかなども序にお教えしようと「デジカメ遠足」なるものを企画。

デジカメの撮り方を教えて下さる適当な方(カメラマン)が見つからない!。遠足の日取りは迫って来た或る日itoitoの通った利き酒の学校のクラスメートにカメラメーカーの方がいた事を思いつき、酔い潰れている所を泣き落として随行をお願いしたのです。

日時は2003.5.1メーデーで会社が休みだと言う事でOKを頂きましたが、当日ぶっつけ本番。朝少し早めに会って当日の台本を渡し、流れを説明。バスの中での講習を頼みましたが、喋りは得意でないという事で、喋ったのはマミコが主です。(涙)

お天気に恵まれましたが会場の「足利フラワーパーク」はその2~3日前からテレビでその美しさを放映された事もあり大賑わい。

佐野インターを降りた時からバスは前に進みません。お弁当はマミコの友達のカメちゃんが近くでお店をやっていると言う事でそこで注文。インターチェンジを降りた瞬間にお弁当を受け渡しという離れ業をやりました。これが実は大正解。フラワーパークに行ったら行列でレストランに入るどころの話ではなかったのです。

しかし、非常に混みました。インターチェンジから2時間くらい掛かったでしょうか。初めてのツアコンということで、マミコはバスの中で喋り捲るももうネタも無い・・・「もう直ぐ着きます!」と声を掛けるも、余りにも進まないバスに皆げんなりしてきて・・・

ようやくついたら大混雑!入った瞬間に誰が何処に行ったかなんて解りませんでした。

スタッフは走り回りその所在を確認の為、見つけた人から使い方をお教えするといった粗療法に取替えです。

この時痛感した事は、バスの座席・食事の時グループ等予め此方で決めておかなければならないということでした。

予定通り目白に帰って来れた時の嬉しかった事!

第1回デジカメ遠足「足利フラワーパーク」はこのようなイベントでした。事前の2月にマミコが実踏に出掛けましたが、花の無い時期ですから藤の咲く時期の混雑さ等は想像もつかなかったようです。花に焦点を充てた撮影会は、天気や咲く時期も関係してきますので難しいですね。

人混みで、食事もトイレも思うようになりませんでしたが、咲き乱れる花に囲まれお教室のお友達と和やかな歓談場所は後でも語り草になったほどです。

itoito・マミコの異世代の違いでも幼い頃の「遠足」の前日の気持ちの高まりは幾つになっても忘れる事はありません。

そんな「遠足」を実施したいと言うマミコの希望を聞き入れ、バス1台を予約・お昼の用意など、講習カメラマン等、旅行社を頼まずに企画してみましたが、先ずは成功でした。

募集人数は40名。費用8400円でした。

その後の、どの会でもそうですが「童心に帰ってはしゃげる部分」がある事を念頭においてイベントは企画いたします。

2回目のデジカメ遠足は秋に「長瀞」へ。3回目の遠足は翌年の春「葉山」へ。そして最後になりました4回目は秋に「奥多摩」へ。

秋の長瀞では「渓流下り」を入れて童心に返って頂く事を試みてみました。水しぶきの上がる船下りに大はしゃぎをしながら楽しいひと時を過ごす事ができました。

この間には「デジカメ写真展」も行い、その様子は「暮らしとパソコン」の中で紹介されました。

パソカレッジ起業秘話(10)

2002年1月からパソカレッジ高田馬場・目白校の両校の運営に入ったマミコはこの一年は、
自分のカラーを出すような仕組みに塗り替える事に精一杯の一年でした。

目白校に来てはぐったりと休憩所で眠り、その姿を見た生徒さんが「どこの坊やが寝ているの!?」と驚かれたと不機嫌な様子で言っていました(笑)

古木さんと言うブレーンを持ち、FCの開拓も手探りながら時代を見ながら手掛け始めました。その他、前職の知識を生かし、独自の視点で「ウェブサイトの使いやすさ」ということを研究し始めました。

昔からあるものを改革するのは大変なものです。
しかし、itoito自身にとってはマミコをいつでも呼び出せる安心感から安泰の年となりました。

itoitoも仕事を始めてから1年が経った5月から「パソコンスクール」へ通ったのです。

教室に初めて様子伺いにいらした方達が「息子・娘はこんな業界で働いているんですよ。何も教室に通わなくても良いのだけれど、息子・娘は恐くて習えません。お金を出しても良いから優しい先生に習いたい」と仰います。

このお気持ちitoito良~く解ります。(笑)

我が家でもマミコに教わろうとしますと「気合よ!気合」等と茶化されて終わりです。

しっかり教えて頂ける先生に、お金を払っても良いから付きたいとの思いが叶った訳です。

itoitoの友人の息子は「母さん、パソコン教室に金を落とすようなバカな事はしないでくれ」と言ったとか。
未だ彼女はパソコンが使えません。

こんな息子・娘に育てたのは誰?と私達は反省していますが。

さて、目白校が20時に終了した後22時まで、毎夜1時間位を目安に通ったのですが。
先ず1年分の月謝を納入しましたが、丁度三女のマユコが高校3年生、大学受験を前に4ヶ月通った時に一時中座致しました。

春にマユコの大学が決まった後、再度6ヶ月申し込みましたがその頃は、既に仕事も忙しくなり殆ど通う事が出来ないまま期限は終わりました。

パソカレッジにもお仕事が終わって駆けつける方も多くいらっしゃいますが、一日の疲れを引きずりながらの学習は大変な事だとitoito応援しています。そしてこう言った勉強は一気に仕上げた方が良い事も実体験致しました。

又少しパソコンが使えるようになった事で超初心者の方の気持ちから遠ざかったというデメリットもあります。

此処で学んだ事で少しパソコンを使う事が解ったitoitoです。
このスクールの経営方法も少しですが学ばさせて頂きました。

秋にはインターネットで探した「利き酒の学校」にも月1回通い始め他の教室の運営方法も参考にする余裕も出て来ました。

この教室では異業種・異世代の方達と机を並べて勉強をしましたが、若い方の吸収力に比べ、itoito含めシニアの方たちの苦戦模様を見させて頂きました。

経験があると言う事がかえって邪魔な知識になる事もあります。

無の状態で入った方が教える方も教え易いです。

それはパソカレッジでも同じ事です。「多少知っています」の言葉がどれだけあてにならないかと言う事です。自己申告ほどいい加減なものはありませんから。

謙虚に「何も解りませんと」仰って頂いた方が教えがいがあります。見れば出来るか否かなんて一目瞭然ですからね。

この時のクラスメート・同窓生とは未だ時々呑みに出掛けます。ボーイフレンドは此処で見つけた拾い物かもしれません。(笑)

普段の主婦の生活からは知り合えない方との出会いは此れからのitoitoの生活に大きな影響を与えてくれました。又、メールが自由自在に出来る事で若い方達とも抵抗無く連絡がとれます。

「この時代メール位出来ないと」と友達にも叱咤激励で勧めていますが、この歳の方達のメールは手紙の習慣が抜けません。堅苦しい内容を見て、メールは最、軽いノリで良いのよと思うのですが。

時々ブラッと旅行に参りますが、行った先で必ずパソコン教室を覗くと言うのも習慣になってきました。

これは地方で教室を開きたい方達の為に、その地方の感じが掴めて良かった思っています。

itoitoにとっては特に大きな波風もなく一年は過ぎました。(マミコはマミコで大変だったみたいですが。)

パソカレッジ起業秘話(9)

年賀状作成講座も終盤の12月末にマミコは勤めを辞め二足のわらじを一本化致しました。悩んだ末の決断でした。

父の経営で1996年に設立したWINパソコンスクールは2001年8月パソカレッジ高田馬場校に校名を変更しました。パソカレッジは高田馬場校と目白校の2校になった訳です。

このパソカレッジ高田馬場校と目白校の両校の運営を任されたマミコは苦悩の日が始まる事になります。

目白校はマミコ自身が手を付け色を加えて自分の好み、社会の流れを先取りして始めた教室ですが、高田馬場校はWindows95の導入と同時に開校した教室。

対象はビジネス関係者。経営方針も全く違うなかで既に、何年も仕事をしてきたベテランのスタッフ達が24歳と言う若いマミコの突然の出現を喜ぶ訳がありません。

高田馬場校を任せるにあたって父は「人事は好きなようにして良い。必要であればすっかり新しいスタッフでやって行くのも良いだろう」と心配を致しましたが、2代目経営者それも女性・若いマミコは「仕事の出来る人は、残して力になってもらう」と優しい配慮がを示したのですが。

これが逆に自分を苦しめる事になる訳ですね。

自分のブレーンを持たない為、孤立無援状態で日々を過ごす為、ストレスは溜まるばかり。
給料を払う重圧というのもありました。「仲良しじゃなく、チームワーク。」という理想はベテランのスタッフには中々届かなかったようです。

一人一人の個性を伸ばす・・・など教科書的なことを模索しながら現実と教科書の違い、若さゆえの悩みがたまり、毎日全身に蕁麻疹が出て、見るのも辛いくらいでした。

その時父は「ストレスは自分に溜めるな。他人に振れ」と申したそうです。マミコはそれを聞いて「アイアムルール。(自分がルール。)」と言い聞かせて自分自身を強くしていく決意をしたと後で話していました。

最終的には新しくスタッフを入れ替え、マミコの経営能力を傍観する事になります。

次女マミコは攻撃的な性格には見えますが、実はどちらかと申しますと2代目らしく「受身・守り」の性格です。新しく改革、というよりは今ある球を丁寧に活用していく、と言う性格です。

だからこそ、今のシニア向けパソコン教室の体質を築いたと思います。

予てから考えておりました、フランチャイズも「パソカレッジクラブ」という小規模・少リスクのFCを考えて見る事を思いついたのもマミコです。

現在その「パソカレッジ倶楽部」のFCのオーナーさんは7人(7校)いらっしゃいます。
各オーナーさん達の健闘していらっしゃるニュースが入る度、我が子の成績表を見るような思いでホットいたします。

夫がitoitoの補佐にU氏を頼んだように、学生時代から目白校でアルバイトしていました古木さんが4月入社しました。