パソカレッジ起業秘話(10)

2002年1月からパソカレッジ高田馬場・目白校の両校の運営に入ったマミコはこの一年は、
自分のカラーを出すような仕組みに塗り替える事に精一杯の一年でした。

目白校に来てはぐったりと休憩所で眠り、その姿を見た生徒さんが「どこの坊やが寝ているの!?」と驚かれたと不機嫌な様子で言っていました(笑)

古木さんと言うブレーンを持ち、FCの開拓も手探りながら時代を見ながら手掛け始めました。その他、前職の知識を生かし、独自の視点で「ウェブサイトの使いやすさ」ということを研究し始めました。

昔からあるものを改革するのは大変なものです。
しかし、itoito自身にとってはマミコをいつでも呼び出せる安心感から安泰の年となりました。

itoitoも仕事を始めてから1年が経った5月から「パソコンスクール」へ通ったのです。

教室に初めて様子伺いにいらした方達が「息子・娘はこんな業界で働いているんですよ。何も教室に通わなくても良いのだけれど、息子・娘は恐くて習えません。お金を出しても良いから優しい先生に習いたい」と仰います。

このお気持ちitoito良~く解ります。(笑)

我が家でもマミコに教わろうとしますと「気合よ!気合」等と茶化されて終わりです。

しっかり教えて頂ける先生に、お金を払っても良いから付きたいとの思いが叶った訳です。

itoitoの友人の息子は「母さん、パソコン教室に金を落とすようなバカな事はしないでくれ」と言ったとか。
未だ彼女はパソコンが使えません。

こんな息子・娘に育てたのは誰?と私達は反省していますが。

さて、目白校が20時に終了した後22時まで、毎夜1時間位を目安に通ったのですが。
先ず1年分の月謝を納入しましたが、丁度三女のマユコが高校3年生、大学受験を前に4ヶ月通った時に一時中座致しました。

春にマユコの大学が決まった後、再度6ヶ月申し込みましたがその頃は、既に仕事も忙しくなり殆ど通う事が出来ないまま期限は終わりました。

パソカレッジにもお仕事が終わって駆けつける方も多くいらっしゃいますが、一日の疲れを引きずりながらの学習は大変な事だとitoito応援しています。そしてこう言った勉強は一気に仕上げた方が良い事も実体験致しました。

又少しパソコンが使えるようになった事で超初心者の方の気持ちから遠ざかったというデメリットもあります。

此処で学んだ事で少しパソコンを使う事が解ったitoitoです。
このスクールの経営方法も少しですが学ばさせて頂きました。

秋にはインターネットで探した「利き酒の学校」にも月1回通い始め他の教室の運営方法も参考にする余裕も出て来ました。

この教室では異業種・異世代の方達と机を並べて勉強をしましたが、若い方の吸収力に比べ、itoito含めシニアの方たちの苦戦模様を見させて頂きました。

経験があると言う事がかえって邪魔な知識になる事もあります。

無の状態で入った方が教える方も教え易いです。

それはパソカレッジでも同じ事です。「多少知っています」の言葉がどれだけあてにならないかと言う事です。自己申告ほどいい加減なものはありませんから。

謙虚に「何も解りませんと」仰って頂いた方が教えがいがあります。見れば出来るか否かなんて一目瞭然ですからね。

この時のクラスメート・同窓生とは未だ時々呑みに出掛けます。ボーイフレンドは此処で見つけた拾い物かもしれません。(笑)

普段の主婦の生活からは知り合えない方との出会いは此れからのitoitoの生活に大きな影響を与えてくれました。又、メールが自由自在に出来る事で若い方達とも抵抗無く連絡がとれます。

「この時代メール位出来ないと」と友達にも叱咤激励で勧めていますが、この歳の方達のメールは手紙の習慣が抜けません。堅苦しい内容を見て、メールは最、軽いノリで良いのよと思うのですが。

時々ブラッと旅行に参りますが、行った先で必ずパソコン教室を覗くと言うのも習慣になってきました。

これは地方で教室を開きたい方達の為に、その地方の感じが掴めて良かった思っています。

itoitoにとっては特に大きな波風もなく一年は過ぎました。(マミコはマミコで大変だったみたいですが。)

パソカレッジ起業秘話(9)

年賀状作成講座も終盤の12月末にマミコは勤めを辞め二足のわらじを一本化致しました。悩んだ末の決断でした。

父の経営で1996年に設立したWINパソコンスクールは2001年8月パソカレッジ高田馬場校に校名を変更しました。パソカレッジは高田馬場校と目白校の2校になった訳です。

このパソカレッジ高田馬場校と目白校の両校の運営を任されたマミコは苦悩の日が始まる事になります。

目白校はマミコ自身が手を付け色を加えて自分の好み、社会の流れを先取りして始めた教室ですが、高田馬場校はWindows95の導入と同時に開校した教室。

対象はビジネス関係者。経営方針も全く違うなかで既に、何年も仕事をしてきたベテランのスタッフ達が24歳と言う若いマミコの突然の出現を喜ぶ訳がありません。

高田馬場校を任せるにあたって父は「人事は好きなようにして良い。必要であればすっかり新しいスタッフでやって行くのも良いだろう」と心配を致しましたが、2代目経営者それも女性・若いマミコは「仕事の出来る人は、残して力になってもらう」と優しい配慮がを示したのですが。

これが逆に自分を苦しめる事になる訳ですね。

自分のブレーンを持たない為、孤立無援状態で日々を過ごす為、ストレスは溜まるばかり。
給料を払う重圧というのもありました。「仲良しじゃなく、チームワーク。」という理想はベテランのスタッフには中々届かなかったようです。

一人一人の個性を伸ばす・・・など教科書的なことを模索しながら現実と教科書の違い、若さゆえの悩みがたまり、毎日全身に蕁麻疹が出て、見るのも辛いくらいでした。

その時父は「ストレスは自分に溜めるな。他人に振れ」と申したそうです。マミコはそれを聞いて「アイアムルール。(自分がルール。)」と言い聞かせて自分自身を強くしていく決意をしたと後で話していました。

最終的には新しくスタッフを入れ替え、マミコの経営能力を傍観する事になります。

次女マミコは攻撃的な性格には見えますが、実はどちらかと申しますと2代目らしく「受身・守り」の性格です。新しく改革、というよりは今ある球を丁寧に活用していく、と言う性格です。

だからこそ、今のシニア向けパソコン教室の体質を築いたと思います。

予てから考えておりました、フランチャイズも「パソカレッジクラブ」という小規模・少リスクのFCを考えて見る事を思いついたのもマミコです。

現在その「パソカレッジ倶楽部」のFCのオーナーさんは7人(7校)いらっしゃいます。
各オーナーさん達の健闘していらっしゃるニュースが入る度、我が子の成績表を見るような思いでホットいたします。

夫がitoitoの補佐にU氏を頼んだように、学生時代から目白校でアルバイトしていました古木さんが4月入社しました。

パソカレッジ起業秘話(8)

1年目の秋といえば「年賀状騒動記」を外せません。

我が家の年賀状は毎年、皆様が元旦早々に喜んで頂けるよう趣向を凝らして作成をしていました。作成者はマミコ。企画お手伝いがitoitoです。

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そんな年賀状作りを皆様に伝えたいと「素敵なオリジナル年賀状作ってみませんか?」と話を持ちかけるitoitoですが。

こんな言葉に即、乗られるのはお元気な主婦層です。
あの年を思い出すには「年賀状作成講座」はランキングでいうなれば1位です。

自分で作った年賀状が出したいからと言う理由でパソコンを始められる人は中高年の方には大変多いですね。

頂いた年賀状に「あの人もパソコンを始めていた。取り残されてる」そんな焦りから始められる人も多いです。

昨年郵政省では年賀状の売れ行きが落ちて来ていると発表をしました。若い方たちの年賀状熱は冷めているかも知れませんが、ことシニアの方たちに関しましては、あてはまらないような気がいたします。

その年賀状シーズンに向けて力を注いで見たことが主婦層に大受け致しました。

2002年用の年賀状で活躍したのは「スキャナー」です。
スキャナーは価格が比較的安い割りには性能がよく「素材の持っている織り」や「和紙のちぢんだ紙の状態」等が良く撮れます。我が家ではもっぱらコピー機の変わりに活躍していましたが。

風呂敷の絵柄やご自分の作品をいれた年賀状が、この年パソカレッジでは大流行いたしました。

付きっ切りになる事が多く、その年は一つの時間帯に3人を限定して作成していただきました。

大フィーバーの年賀状でしたが、振袖の袂の柄を使いたいとスキャナーの上で振袖を広げられました時は、主婦のパワーを見たような・・・感動でしたね。

この頃は、未だデジカメで撮った写真を使った年賀状ではありません。

今では、毎年夏が過ぎますと今年はどんな年賀状を作って頂こうかと考えます。

文字をゴールドで出す技もあみだしました。
ワード達人の中に出てきます「白抜き文字」も年賀状では活躍いたします。

年賀状作成に向けて頑張っていらっしゃる方も少なくありません。

スタッフも慣れたものでワードを屈指したり、昨年はphotoshopを使ったり少し高度な技術を使った年賀状も出来ました。

作品例を載せてみます。

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昨日思い出したのですが。開校当初慣れない仕事をするitoitoの補佐に、夫は定年退職後のマージャン友達のU氏を頼みました。
在職中にはエクセルを使っていらしたらしく頑張って頂きましたが、主婦層にはお年のU氏は中々受け入れられませんでしたね。

一番活き活きしていらしたのは誰よりも久し振りに頼りにされお仕事をするU氏のような気が致しました。

パソカレッジ起業秘話(7)

パソカレッジでは生徒さんからの質問や、やってみたい事を全てテキスト化しています。
「あの薄っぺらいテキスト1冊500円もするの?」と仰った方もいました。
も少し価値を感じるようにしたら如何かしら?と考えた事もありますが、出来るだけ単価を低く抑えたかったからコピーだけで使っています。

料金を安くする為には人件費を抑えると言う事が必要になります。

「解り易く・・噛み砕いた言い方」のテキストを使えば解ると言う仕組みにはなっていますが、それでも超初心者の方達には難しく頻繁に質問が出ます。

「また同じ質問ですか。この間言いましたねとは死んでも言いません」と言う言葉がパソカレッジの5か条のご誓文にも入っている程です。

1回.2回で解る方は先ずいらっしゃいませんから。少ないスタッフで遣り繰りをするには多くのテキストが必要だった訳です。

ビデオ学習でFCをなさっている会社もあります。人、其々やりたい事・能力が違います。其れを見分けるにはやはり人の力に頼らなければ出来ない事とitoito経験から信じています。

さてF君。マミコの友達でした。

最初の目白校では欠かせない陰の人でした。K大学の理工学部院卒のF君は大手通信業界で働くエリート。目白校のパソコンは「ME」を使っていました。XPと違ってよくフリーズを致しました。調子が良いパソコンなんて毎日何台だった事か?

騙し騙し使っている状態でしたね。勤務が終わった後からパソコンの調子を見に来てくれたF君の手によって蘇ってきたパソコンでした。

マミコがシステムの仕事に慣れるまではどれだけお世話になったか知れません。

そして亡くなった生徒の村田さん・松井さん・大西さん。今もお顔を思い出します。

特にitoitoは村田さんからカメラの知識を習いました。初めてのデジカメ写真展の時には「膵臓癌」の術後2ヶ月の体で手伝って頂きました。

今お元気であれば彼方此方二人で写真を撮り歩いていましたね。写真展に出して下さいましたコンクールに入賞したとご自慢の作品ですが、形見におねだりしておけば良かったと後悔しています。

松井さん、アイボの松井さんと呼んでいた松井さんのご自慢は「アイボ」。

見てみたいと言うitoitoのお願いを聞いて下さり、或る日タクシーに乗せて運んでいらっしゃいました。教室内を歩くアイボを見て大喜びしたitoitoです。

大西さん、お子さんがitoitoと同じくらいと言う事から何となく話が合って。
ある時長い時間を掛けてご自分が癌が再発して危ないと言う事を仰いました。ご自身の事も色々話されしっかりした方で、少し年上だった大西さんにitoito憧れましたね。

最後のお電話で「調子が悪いから少しお休みをします。必ず戻って来るから席を開けておいてね」と言われてから1ヵ月後に亡くなられたと、後でお嬢様から伺いました。

パソカレッジ起業秘話(6)

2001年5月.6月で入会者は100人を越しました。

経営的には成功と言えたかもしれません。

itoitoはその頃、夢の中で予約を取り間違えいらしてもパソコンの席がなかったり、生徒さんが突然全員辞められたり・・・そんな夢を見て汗ビッショリになり目を覚ます事もありましたね。

教室の売上の升がどれ位だと言う事も見えてきましたし、少し頑張れば売上は伸びると言う事も解ってきました。トンネルの先の灯りが見えてきたのは開校して4ヶ月経ち、季節が秋に変わる頃でした。

万年の悩みは「教える人」がいない。「スキル」が低いと言うことでした。

ある時期はスタッフの研修を定期的に行いスキルアップを計った事もあります。

マミコは本業の仕事が忙しく残業をしないで帰る事が難しくなり、毎日会社から急いで帰り18時から20時のビルの終業時間まで(教室は19:30まで)それ以上に翌日の業務の計画を立てたり、新しいテキストを作ったり、販促物のチラシを作ったり、パソコンの調子を見たり雑務に追われる日々が続きました。

itoitoも最初は仕事が珍しいと言う事も手伝ってマミコの片腕となって頑張りましたが家庭があります。

もう限界と言う日を何回か経験した頃、マミコも自分自身に限界を感じ始めました。

当時の勤め先はマミコ自身株主だった事・上司である社長を尊敬していたこともあり、ここで諦める訳にはいきません。

しかし、2足のわらじは精神的にも・体力的にも辛いようでした。月曜日~金曜日は会社とパソカレッジを、そして土日はパソカレッジで朝10時から20時まで。唯一の気の抜ける時間は木曜日というパソカレッジの定休日の夜だけ。身売りする事を真剣に考え始めたのもこの時期でした。

父に見売り先を探してくれる様に頼んだ所、自分で開いた教室なのだから、自分が責任を持って身売り先を探せと言う指示が。

マミコはシステム業界に勤めていた頃の人の伝を辿って本気で見売り先を考え動き始めました。

しかし、パソカレッジのコンセプトは無くして欲しくない。という私達の思いと、まだ会員が100人しかいないということで値段はつきませんでした。

さらに、値段がつく所となると経営方針がパソカレッジと合わない・・・。パソカレッジは皆さんにパソコンをワクワクして楽しんでいただく場所、儲け第一主義ではなかったのです。しかし、それでは普通の会社では経営としては成り立たない。

主婦・シニア・シルバー層のための教室という私達の考え方と経営者としての数名の方の考え方は両立しませんでした。

楽しそうに通ってくださる方の顔、数名の「ありがとう」「ここに通ってよかった」と言って下さる、そんな声を励みにパソカレッジは存続を決定したのです。

そしてマミコは自分自身の決断として、自身の職業を一本化することに決めたのでした。

次は開校当時お世話になったFくんの事、今も忘れられない生徒さんの事を書きます。