パソカレッジ起業秘話(6)

2001年5月.6月で入会者は100人を越しました。

経営的には成功と言えたかもしれません。

itoitoはその頃、夢の中で予約を取り間違えいらしてもパソコンの席がなかったり、生徒さんが突然全員辞められたり・・・そんな夢を見て汗ビッショリになり目を覚ます事もありましたね。

教室の売上の升がどれ位だと言う事も見えてきましたし、少し頑張れば売上は伸びると言う事も解ってきました。トンネルの先の灯りが見えてきたのは開校して4ヶ月経ち、季節が秋に変わる頃でした。

万年の悩みは「教える人」がいない。「スキル」が低いと言うことでした。

ある時期はスタッフの研修を定期的に行いスキルアップを計った事もあります。

マミコは本業の仕事が忙しく残業をしないで帰る事が難しくなり、毎日会社から急いで帰り18時から20時のビルの終業時間まで(教室は19:30まで)それ以上に翌日の業務の計画を立てたり、新しいテキストを作ったり、販促物のチラシを作ったり、パソコンの調子を見たり雑務に追われる日々が続きました。

itoitoも最初は仕事が珍しいと言う事も手伝ってマミコの片腕となって頑張りましたが家庭があります。

もう限界と言う日を何回か経験した頃、マミコも自分自身に限界を感じ始めました。

当時の勤め先はマミコ自身株主だった事・上司である社長を尊敬していたこともあり、ここで諦める訳にはいきません。

しかし、2足のわらじは精神的にも・体力的にも辛いようでした。月曜日~金曜日は会社とパソカレッジを、そして土日はパソカレッジで朝10時から20時まで。唯一の気の抜ける時間は木曜日というパソカレッジの定休日の夜だけ。身売りする事を真剣に考え始めたのもこの時期でした。

父に見売り先を探してくれる様に頼んだ所、自分で開いた教室なのだから、自分が責任を持って身売り先を探せと言う指示が。

マミコはシステム業界に勤めていた頃の人の伝を辿って本気で見売り先を考え動き始めました。

しかし、パソカレッジのコンセプトは無くして欲しくない。という私達の思いと、まだ会員が100人しかいないということで値段はつきませんでした。

さらに、値段がつく所となると経営方針がパソカレッジと合わない・・・。パソカレッジは皆さんにパソコンをワクワクして楽しんでいただく場所、儲け第一主義ではなかったのです。しかし、それでは普通の会社では経営としては成り立たない。

主婦・シニア・シルバー層のための教室という私達の考え方と経営者としての数名の方の考え方は両立しませんでした。

楽しそうに通ってくださる方の顔、数名の「ありがとう」「ここに通ってよかった」と言って下さる、そんな声を励みにパソカレッジは存続を決定したのです。

そしてマミコは自分自身の決断として、自身の職業を一本化することに決めたのでした。

次は開校当時お世話になったFくんの事、今も忘れられない生徒さんの事を書きます。