<父の思い出 ⑥>

父については、僅かな記憶しか残っていないので、これが最終となります。

離婚騒動も宙に舞ったまま、父は彼の世へ旅立ちました。  父らしい波乱万丈の人生の幕の閉じ方だったかもしれません。 

 

穏やかな生活に戻って10年が経った時、「10年祭と追悼演武会」が町の体育館を借りて開催されました。

10年祭の祝詞奏上の1時間、体育館上空では、雷の鳴り響く音が聞こえていました。 参列した方達は、天を仰ぎながら、「。。。らしいね。。。」と、父の生前を思い浮かべていらしたと思います。

雨が降る訳でもなく、雷の音に包まれた10年祭でしたが、不思議な出来事でしたね。

因みに、母も合気道、3段有段者です。 

この本を、偶然マミコが見つけ取り寄せてくれました。

この中に父の事が載せてあり大変興味深く読みました。  母が亡くなった今では、父について語れる人は、殆どいないのでは。。。貴重な資料ですね。 但し、itoitoが生れる前の父についてです。 

 

<父の思い出 ⑤>

電報が届いたのは、母が食事の支度が終わった頃の時間だったような。。。 

1通の電報を読んだ母は、「itoチャン、外務省から、オトウサンが自動車事故で亡くなったと電報が来たんよ。これ本当じゃろうかね?」と聞いて来ました。

 

母が、早朝に聞いた、戸を叩く音は、父が亡くなった時間だったようです。 玄関では無くて勝手口を叩いたって敷居が高かったのかしらね?(笑)

 

それから、夜にかけて、我が家には親戚が集まり、蜂の巣をつついた様な騒ぎになったのです。

ああでもない。。。こうでもない。。。 何人集まっても解決策が出て来る事はなかった。。。みんな「本当じゃろうか?」と半信半疑でしたから。

その当時、ベルギーには、火葬の制度がなくて、土葬だけ。。。それも、15年契約だとか、永久契約だとか。  母は、「15年契約って、15年経ったら掘り起こしに行く? そんな事、私は出来ません。」と言って途方にくれていました。

結局、西ドイツで火葬にして日本に持ち帰る事になったのです。 まだベルリンの壁があった時代の話しですからね。

遺体の引き取りには、体の弱い母に代わって、兄が行く事になりました。兄は、この時が海外初体験でした。 

自分の乗った飛行機と、遺骨を乗せる飛行機を間違えたり。。。大変だったようです。

そしてそのお陰で、最後に長い旅をして?日本の土を踏んだ父だったのです。

<父の思い出 ④>

さて、ミャンマーから帰国した父は、考え込むような所が見え、焦っている様にも感じました。 相変わらず、懐かないitoitoでしたが、遠くから、そんな父を観察していたように思います。

縁側で、葉巻をくゆらせていた父の姿は、特に印象に残っています。 

 

そんな父が、2年後、再度海外へ出て行ったのです。 ミャンマーからの帰国は、船だったと思いますが、ベルギーへ発つ父はエールフランス航空。 2年間自宅で悶々と過ごしていた時に比べて、華やかさがあった様に感じ、それが似合っていましたね。

さてさて、ベルギーに行った父は60歳代半ば過ぎ。。。 そんな父にフランス女性の恋人が出来た! 今の様に、メールがある訳でなく、スカイプが出来る訳でもなく、ひたすら手紙だけで、母に離婚を迫った父でした。(笑)

「itoチャン、オトウサンから、こんな手紙が来たけど、どう思う?」と相談を持ちかけられてもね~。。。

「好きにしたらって返事を書いたら。」と言ったitoitoでしたが、頭の中ではソロバンをはじいていましたね。 「この先、私の人生は如何なるか?」って。

手紙が行ったり来たりには、時間が掛かりますので、そうこうしている内に、結構時間が経過したようでした。

ある日の事、「今朝ね、夜が明けたくらいの早い時間に、勝手口の木戸を叩く音が聞こえてね、起きて見たけど、誰もおらんのよ、可笑しな事があるもんじゃね。」と母が話しました。

 

そして、その日の日暮れ時、外務省から1通の長い弔電が届きました。 春3月の事です。

 

<父の思い出 ③>

6年振りに帰国した父の荷物の中には、お土産欲しい物リストにいれていた、「ビルマの竪琴」はなかったのよ。 どこで消えちゃったのか (><)

この時の6年間の離別は中々難しくて。。。「オトウサン」と呼べない。。。懐かないitoitoでした。(難しい年頃ですからね)

ある時、突然、父親参観日のご案内のチラシを学校で頂きました。家に持って帰って必ず見せる様にと担任の先生は仰いましたね。

「このお便りを、どうすれば見せなくて済むか。。。」暫くはそればかり考えて、ご飯も給食も喉を通らない日が続きましたが、そんな訳にも行かずその日を迎えたのです。

我が家は、父がミャンマーに行くと同時に、海のそばの家から、田園の中の家に引っ越しました。友達のお父さんは、殆どが農業。 当日は、小ざっぱりした開襟シャツにズボン。 そんな装いでした。

さてトウサンは?

ドキドキしながら迎えた父は、背広に真っ赤なネクタイ。おまけにベレー帽なんか被っていて完全に周りから浮いていましたね。(涙) 赤い色が好きだった父でしたが、「やっぱり」と予感が的中してショックを受けたitoitoでした。 普通の恰好で来て欲しかったのに。(ため息)

授業は算数「鶴亀算」

「この問題が出来た人」って先生が聞かれた時、後ろから「は~~~い」と言う大人の低い声が聞こえて。

まさか?!!!って後ろを振り向いたら、何と父!!!(汗)  

少し変わった家庭環境で育った私は、そんな事位で登校拒否を起こす事もなく、ショックを顔にも出さず偉かったですね。

それでも、一日も早く、また何処かに行って欲しいな~って思っていたかも。(うふっ)

<父の思い出 ②>

父の記憶を辿った昨日、思い出した事があります。

幼かった私は、何時も父の膝の中にいた事を。  父の居る時は、客人が多かった。 その客人の中に、「こんな可愛い子、連れて帰って床の間に飾っておきたい。」と仰った方がいました。 「itoito、この家がいい。。。よその家には行かせないで!」と泣き喚いた記憶が蘇りました。 今でも初対面の方に会うと体が硬くなりますが、この時の大人のジョークやお世辞が解らなかった私には、今でも恐い想い出の一つなのです。

ミャンマーに何故行く事になったか? ネット上の何処かにか、こんな風に残されている記事を発見しました。

「マンダレー警察学校へ日本の戦争賠償に代わる文化供与使節として、合気道指導のため派遣された。(2年間)

このミャンマーへ行く為に必要な学歴のなかった父は、日本大学の学長の許へ行き、短刀を突きつけて、大学の卒業証書を書いて頂いたと。。。母から聞いた話です。実家で、この卒業証書を一度目にした事がありますので本当の話だと思います。 

職業柄、実家には、武道で使う道具(薙刀、弓、棒、真剣、鎖鎌)がありました。 

これもネット上で見つけた話ですが、兄が悪戯をし父の恐さに逃げたらしいのですが、兄が逃げる後ろ姿を暫くみていた父は、何十メートルか行った後ろから弓矢を放ったとか。。。勿論敢えて外した弓矢は、兄の耳元のそばを通過したと面白く書いてありました。 

武道に関しての父の実力と親子の絆を残した話です。 短刀と書きましたが、脇差しと言うのでしょうか?父は、そんな刀を何時も身近に置いていたような気がします。

兄達から、「itoito、トウサンに可愛がられているからって良い気になるな!」と苛められていた様な気がします。 確かに、見守られていましたね。思い出しました。(笑)