パソカレッジ企業秘話(11)

高田馬場・目白の2校の運営に東奔西走するマミコでした。
2003年4月始めての教室のイベント「デジカメ遠足」を試みて見ました。

デジカメの使い方を教えて欲しいと言う声は早くから上がっていたのですが、メーカーによって機能の違いがあり超初心者にどのようにお教えするかと言う事に悩んでいました。

それでも世の中、量販店の店頭に立ち並ぶお兄さま・お姉さまはデジカメのメーカーの販売員が殆どです。

「クラス会に行ったら皆んな液晶画面を見て撮るカメラだったわ」と妻が言うんですよ。「何処のメーカーを買ったら良いですか?」撮り方を教えて欲しいと懇願される生徒さんも続出。そんな日が続き始めました。

そんなこんな時、卒業するスタッフのお別れ会に「韮山のイチゴ狩り」に行きました。その時撮った写真を元にテキストを一気に作り上げました。

パソコン上で編集・その他の取り入れなどはお教えできるのですが、如何すれば良い写真が撮れるかなども序にお教えしようと「デジカメ遠足」なるものを企画。

デジカメの撮り方を教えて下さる適当な方(カメラマン)が見つからない!。遠足の日取りは迫って来た或る日itoitoの通った利き酒の学校のクラスメートにカメラメーカーの方がいた事を思いつき、酔い潰れている所を泣き落として随行をお願いしたのです。

日時は2003.5.1メーデーで会社が休みだと言う事でOKを頂きましたが、当日ぶっつけ本番。朝少し早めに会って当日の台本を渡し、流れを説明。バスの中での講習を頼みましたが、喋りは得意でないという事で、喋ったのはマミコが主です。(涙)

お天気に恵まれましたが会場の「足利フラワーパーク」はその2~3日前からテレビでその美しさを放映された事もあり大賑わい。

佐野インターを降りた時からバスは前に進みません。お弁当はマミコの友達のカメちゃんが近くでお店をやっていると言う事でそこで注文。インターチェンジを降りた瞬間にお弁当を受け渡しという離れ業をやりました。これが実は大正解。フラワーパークに行ったら行列でレストランに入るどころの話ではなかったのです。

しかし、非常に混みました。インターチェンジから2時間くらい掛かったでしょうか。初めてのツアコンということで、マミコはバスの中で喋り捲るももうネタも無い・・・「もう直ぐ着きます!」と声を掛けるも、余りにも進まないバスに皆げんなりしてきて・・・

ようやくついたら大混雑!入った瞬間に誰が何処に行ったかなんて解りませんでした。

スタッフは走り回りその所在を確認の為、見つけた人から使い方をお教えするといった粗療法に取替えです。

この時痛感した事は、バスの座席・食事の時グループ等予め此方で決めておかなければならないということでした。

予定通り目白に帰って来れた時の嬉しかった事!

第1回デジカメ遠足「足利フラワーパーク」はこのようなイベントでした。事前の2月にマミコが実踏に出掛けましたが、花の無い時期ですから藤の咲く時期の混雑さ等は想像もつかなかったようです。花に焦点を充てた撮影会は、天気や咲く時期も関係してきますので難しいですね。

人混みで、食事もトイレも思うようになりませんでしたが、咲き乱れる花に囲まれお教室のお友達と和やかな歓談場所は後でも語り草になったほどです。

itoito・マミコの異世代の違いでも幼い頃の「遠足」の前日の気持ちの高まりは幾つになっても忘れる事はありません。

そんな「遠足」を実施したいと言うマミコの希望を聞き入れ、バス1台を予約・お昼の用意など、講習カメラマン等、旅行社を頼まずに企画してみましたが、先ずは成功でした。

募集人数は40名。費用8400円でした。

その後の、どの会でもそうですが「童心に帰ってはしゃげる部分」がある事を念頭においてイベントは企画いたします。

2回目のデジカメ遠足は秋に「長瀞」へ。3回目の遠足は翌年の春「葉山」へ。そして最後になりました4回目は秋に「奥多摩」へ。

秋の長瀞では「渓流下り」を入れて童心に返って頂く事を試みてみました。水しぶきの上がる船下りに大はしゃぎをしながら楽しいひと時を過ごす事ができました。

この間には「デジカメ写真展」も行い、その様子は「暮らしとパソコン」の中で紹介されました。

パソカレッジ起業秘話(10)

2002年1月からパソカレッジ高田馬場・目白校の両校の運営に入ったマミコはこの一年は、
自分のカラーを出すような仕組みに塗り替える事に精一杯の一年でした。

目白校に来てはぐったりと休憩所で眠り、その姿を見た生徒さんが「どこの坊やが寝ているの!?」と驚かれたと不機嫌な様子で言っていました(笑)

古木さんと言うブレーンを持ち、FCの開拓も手探りながら時代を見ながら手掛け始めました。その他、前職の知識を生かし、独自の視点で「ウェブサイトの使いやすさ」ということを研究し始めました。

昔からあるものを改革するのは大変なものです。
しかし、itoito自身にとってはマミコをいつでも呼び出せる安心感から安泰の年となりました。

itoitoも仕事を始めてから1年が経った5月から「パソコンスクール」へ通ったのです。

教室に初めて様子伺いにいらした方達が「息子・娘はこんな業界で働いているんですよ。何も教室に通わなくても良いのだけれど、息子・娘は恐くて習えません。お金を出しても良いから優しい先生に習いたい」と仰います。

このお気持ちitoito良~く解ります。(笑)

我が家でもマミコに教わろうとしますと「気合よ!気合」等と茶化されて終わりです。

しっかり教えて頂ける先生に、お金を払っても良いから付きたいとの思いが叶った訳です。

itoitoの友人の息子は「母さん、パソコン教室に金を落とすようなバカな事はしないでくれ」と言ったとか。
未だ彼女はパソコンが使えません。

こんな息子・娘に育てたのは誰?と私達は反省していますが。

さて、目白校が20時に終了した後22時まで、毎夜1時間位を目安に通ったのですが。
先ず1年分の月謝を納入しましたが、丁度三女のマユコが高校3年生、大学受験を前に4ヶ月通った時に一時中座致しました。

春にマユコの大学が決まった後、再度6ヶ月申し込みましたがその頃は、既に仕事も忙しくなり殆ど通う事が出来ないまま期限は終わりました。

パソカレッジにもお仕事が終わって駆けつける方も多くいらっしゃいますが、一日の疲れを引きずりながらの学習は大変な事だとitoito応援しています。そしてこう言った勉強は一気に仕上げた方が良い事も実体験致しました。

又少しパソコンが使えるようになった事で超初心者の方の気持ちから遠ざかったというデメリットもあります。

此処で学んだ事で少しパソコンを使う事が解ったitoitoです。
このスクールの経営方法も少しですが学ばさせて頂きました。

秋にはインターネットで探した「利き酒の学校」にも月1回通い始め他の教室の運営方法も参考にする余裕も出て来ました。

この教室では異業種・異世代の方達と机を並べて勉強をしましたが、若い方の吸収力に比べ、itoito含めシニアの方たちの苦戦模様を見させて頂きました。

経験があると言う事がかえって邪魔な知識になる事もあります。

無の状態で入った方が教える方も教え易いです。

それはパソカレッジでも同じ事です。「多少知っています」の言葉がどれだけあてにならないかと言う事です。自己申告ほどいい加減なものはありませんから。

謙虚に「何も解りませんと」仰って頂いた方が教えがいがあります。見れば出来るか否かなんて一目瞭然ですからね。

この時のクラスメート・同窓生とは未だ時々呑みに出掛けます。ボーイフレンドは此処で見つけた拾い物かもしれません。(笑)

普段の主婦の生活からは知り合えない方との出会いは此れからのitoitoの生活に大きな影響を与えてくれました。又、メールが自由自在に出来る事で若い方達とも抵抗無く連絡がとれます。

「この時代メール位出来ないと」と友達にも叱咤激励で勧めていますが、この歳の方達のメールは手紙の習慣が抜けません。堅苦しい内容を見て、メールは最、軽いノリで良いのよと思うのですが。

時々ブラッと旅行に参りますが、行った先で必ずパソコン教室を覗くと言うのも習慣になってきました。

これは地方で教室を開きたい方達の為に、その地方の感じが掴めて良かった思っています。

itoitoにとっては特に大きな波風もなく一年は過ぎました。(マミコはマミコで大変だったみたいですが。)

パソカレッジ起業秘話(9)

年賀状作成講座も終盤の12月末にマミコは勤めを辞め二足のわらじを一本化致しました。悩んだ末の決断でした。

父の経営で1996年に設立したWINパソコンスクールは2001年8月パソカレッジ高田馬場校に校名を変更しました。パソカレッジは高田馬場校と目白校の2校になった訳です。

このパソカレッジ高田馬場校と目白校の両校の運営を任されたマミコは苦悩の日が始まる事になります。

目白校はマミコ自身が手を付け色を加えて自分の好み、社会の流れを先取りして始めた教室ですが、高田馬場校はWindows95の導入と同時に開校した教室。

対象はビジネス関係者。経営方針も全く違うなかで既に、何年も仕事をしてきたベテランのスタッフ達が24歳と言う若いマミコの突然の出現を喜ぶ訳がありません。

高田馬場校を任せるにあたって父は「人事は好きなようにして良い。必要であればすっかり新しいスタッフでやって行くのも良いだろう」と心配を致しましたが、2代目経営者それも女性・若いマミコは「仕事の出来る人は、残して力になってもらう」と優しい配慮がを示したのですが。

これが逆に自分を苦しめる事になる訳ですね。

自分のブレーンを持たない為、孤立無援状態で日々を過ごす為、ストレスは溜まるばかり。
給料を払う重圧というのもありました。「仲良しじゃなく、チームワーク。」という理想はベテランのスタッフには中々届かなかったようです。

一人一人の個性を伸ばす・・・など教科書的なことを模索しながら現実と教科書の違い、若さゆえの悩みがたまり、毎日全身に蕁麻疹が出て、見るのも辛いくらいでした。

その時父は「ストレスは自分に溜めるな。他人に振れ」と申したそうです。マミコはそれを聞いて「アイアムルール。(自分がルール。)」と言い聞かせて自分自身を強くしていく決意をしたと後で話していました。

最終的には新しくスタッフを入れ替え、マミコの経営能力を傍観する事になります。

次女マミコは攻撃的な性格には見えますが、実はどちらかと申しますと2代目らしく「受身・守り」の性格です。新しく改革、というよりは今ある球を丁寧に活用していく、と言う性格です。

だからこそ、今のシニア向けパソコン教室の体質を築いたと思います。

予てから考えておりました、フランチャイズも「パソカレッジクラブ」という小規模・少リスクのFCを考えて見る事を思いついたのもマミコです。

現在その「パソカレッジ倶楽部」のFCのオーナーさんは7人(7校)いらっしゃいます。
各オーナーさん達の健闘していらっしゃるニュースが入る度、我が子の成績表を見るような思いでホットいたします。

夫がitoitoの補佐にU氏を頼んだように、学生時代から目白校でアルバイトしていました古木さんが4月入社しました。

パソカレッジ起業秘話(8)

1年目の秋といえば「年賀状騒動記」を外せません。

我が家の年賀状は毎年、皆様が元旦早々に喜んで頂けるよう趣向を凝らして作成をしていました。作成者はマミコ。企画お手伝いがitoitoです。

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そんな年賀状作りを皆様に伝えたいと「素敵なオリジナル年賀状作ってみませんか?」と話を持ちかけるitoitoですが。

こんな言葉に即、乗られるのはお元気な主婦層です。
あの年を思い出すには「年賀状作成講座」はランキングでいうなれば1位です。

自分で作った年賀状が出したいからと言う理由でパソコンを始められる人は中高年の方には大変多いですね。

頂いた年賀状に「あの人もパソコンを始めていた。取り残されてる」そんな焦りから始められる人も多いです。

昨年郵政省では年賀状の売れ行きが落ちて来ていると発表をしました。若い方たちの年賀状熱は冷めているかも知れませんが、ことシニアの方たちに関しましては、あてはまらないような気がいたします。

その年賀状シーズンに向けて力を注いで見たことが主婦層に大受け致しました。

2002年用の年賀状で活躍したのは「スキャナー」です。
スキャナーは価格が比較的安い割りには性能がよく「素材の持っている織り」や「和紙のちぢんだ紙の状態」等が良く撮れます。我が家ではもっぱらコピー機の変わりに活躍していましたが。

風呂敷の絵柄やご自分の作品をいれた年賀状が、この年パソカレッジでは大流行いたしました。

付きっ切りになる事が多く、その年は一つの時間帯に3人を限定して作成していただきました。

大フィーバーの年賀状でしたが、振袖の袂の柄を使いたいとスキャナーの上で振袖を広げられました時は、主婦のパワーを見たような・・・感動でしたね。

この頃は、未だデジカメで撮った写真を使った年賀状ではありません。

今では、毎年夏が過ぎますと今年はどんな年賀状を作って頂こうかと考えます。

文字をゴールドで出す技もあみだしました。
ワード達人の中に出てきます「白抜き文字」も年賀状では活躍いたします。

年賀状作成に向けて頑張っていらっしゃる方も少なくありません。

スタッフも慣れたものでワードを屈指したり、昨年はphotoshopを使ったり少し高度な技術を使った年賀状も出来ました。

作品例を載せてみます。

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昨日思い出したのですが。開校当初慣れない仕事をするitoitoの補佐に、夫は定年退職後のマージャン友達のU氏を頼みました。
在職中にはエクセルを使っていらしたらしく頑張って頂きましたが、主婦層にはお年のU氏は中々受け入れられませんでしたね。

一番活き活きしていらしたのは誰よりも久し振りに頼りにされお仕事をするU氏のような気が致しました。

パソカレッジ起業秘話(7)

パソカレッジでは生徒さんからの質問や、やってみたい事を全てテキスト化しています。
「あの薄っぺらいテキスト1冊500円もするの?」と仰った方もいました。
も少し価値を感じるようにしたら如何かしら?と考えた事もありますが、出来るだけ単価を低く抑えたかったからコピーだけで使っています。

料金を安くする為には人件費を抑えると言う事が必要になります。

「解り易く・・噛み砕いた言い方」のテキストを使えば解ると言う仕組みにはなっていますが、それでも超初心者の方達には難しく頻繁に質問が出ます。

「また同じ質問ですか。この間言いましたねとは死んでも言いません」と言う言葉がパソカレッジの5か条のご誓文にも入っている程です。

1回.2回で解る方は先ずいらっしゃいませんから。少ないスタッフで遣り繰りをするには多くのテキストが必要だった訳です。

ビデオ学習でFCをなさっている会社もあります。人、其々やりたい事・能力が違います。其れを見分けるにはやはり人の力に頼らなければ出来ない事とitoito経験から信じています。

さてF君。マミコの友達でした。

最初の目白校では欠かせない陰の人でした。K大学の理工学部院卒のF君は大手通信業界で働くエリート。目白校のパソコンは「ME」を使っていました。XPと違ってよくフリーズを致しました。調子が良いパソコンなんて毎日何台だった事か?

騙し騙し使っている状態でしたね。勤務が終わった後からパソコンの調子を見に来てくれたF君の手によって蘇ってきたパソコンでした。

マミコがシステムの仕事に慣れるまではどれだけお世話になったか知れません。

そして亡くなった生徒の村田さん・松井さん・大西さん。今もお顔を思い出します。

特にitoitoは村田さんからカメラの知識を習いました。初めてのデジカメ写真展の時には「膵臓癌」の術後2ヶ月の体で手伝って頂きました。

今お元気であれば彼方此方二人で写真を撮り歩いていましたね。写真展に出して下さいましたコンクールに入賞したとご自慢の作品ですが、形見におねだりしておけば良かったと後悔しています。

松井さん、アイボの松井さんと呼んでいた松井さんのご自慢は「アイボ」。

見てみたいと言うitoitoのお願いを聞いて下さり、或る日タクシーに乗せて運んでいらっしゃいました。教室内を歩くアイボを見て大喜びしたitoitoです。

大西さん、お子さんがitoitoと同じくらいと言う事から何となく話が合って。
ある時長い時間を掛けてご自分が癌が再発して危ないと言う事を仰いました。ご自身の事も色々話されしっかりした方で、少し年上だった大西さんにitoito憧れましたね。

最後のお電話で「調子が悪いから少しお休みをします。必ず戻って来るから席を開けておいてね」と言われてから1ヵ月後に亡くなられたと、後でお嬢様から伺いました。