忘れ物の名人だったマミコです。
itoitoはマミコを医者にと考えていた時期がありしたが、大切な命を預る人が忘れ物の名人なんて考えられません。 残念ですが諦めました。(苦笑)
幼稚園に通い始めた頃、送り出しさぁ家事をと思っていると「り~~ん り~~ん」と電話のベルの音が。
「ママ~、何してるの?マミコ心配なのよ」と。
『この電話何処からしてるの?」と訊ねるitoitoに
「職員室。。。このお部屋誰もいないんだよ~」と。
「先生は? お友達は?」
「誰もいないよ。マミね~、幼稚園つまんないんだよ。」と。。。
それから、暫らくした頃から登校拒否が始まりました。
幼稚園時代の2年間はアッと言う間に過ぎました。
小学2年生の春から編入試験で受かった学校へ、電車を使って、バスを使って登校致しました。
少し離れた学校からも、始業前に電話で「○○忘れたの、届けて!」と。
購買部のシスターが忘れ物の窓口でしたから、体も態度も小さくなって忘れ物を渡して下さるようにお願いをして帰っておりました。
そんな事頭の片隅にも覚えてはいないでしょうが。(笑)
あれよあれよと言う間に社会人に。
波乱万丈の人生を歩んだマミコですが、本日「日経産業新聞」に載っています。
最近は、新聞などに会社の代表として、また個人的にも載せて頂く事が多くなりました。
大変有り難い事だと感謝申し上げます。
「私達のパソコンの先生が載ってる」こんな言葉に喜んでいますが、これを機に初心に戻り、「パソカレッジ目白校」を立ち上げた時の気持ちを思い出して見たいと思っています。