起業時の四方山話

福島県いわき市に教室を開校されますオーナーさんが、2次研修にいらしています。

いわき近郊にお住まいの方、も少しお待ちくださいね。 パソカレッジいわき教室がオープン致しますよ。

FCで開校される方の2次研修は、こちら高田馬場校で行っています。 教室見学にいらして以来にお会いする事になります。

「母娘企業秘話」 隅々まで読んでいますよ。。。とそんな話から目白校開校時、マミオン起業時を思い出すitoitoなのです。

マミオン(有)は、資本金300万円でスタート。 今も変わりは御座いません。

テキストを印刷する為にコピー機、他企業に提出する資料作成の為にカラーレーザープリンターを購入致しました。

起業したばかりの会社ですから、リースには保証人が必要になりますね。 大きく事業を営む友に保証人のお願いをしたのですが、「保証人だけはなりたくない」と言う事で却下。

この時から、「他人は当てにしない」 と言う事、「世の中は甘くはない」 と言う事を悟ったitoitoでした。 300万円の資本金は、この二つの印刷機150万円で大半が消えて行った事になります。 

あれから6年が経ちました。

帝国データーバンクさんの優良企業にも載せて頂けるようになり、起業当時の印刷機購入からお世話になっています営業のAさんからも、「伸びましたね~、最初はリースが通らなくて苦労されたのに。。。」と仰って頂けるほど。

石の上にも3年とか申します。

それなりの努力をして、それが時代の波に乗り、人から認められるようになれば。。。笑える日は来ると信じています。

「人は、(客)待っているだけでは来ませんよ。 波に乗せて引き寄せなければ。」と研修時に話すitoitoです。

商売は飽きない事ですね。 私達は、毎日同じ事の繰り返しですが、いらして下さる方達は、新鮮な日々を求めていらっしゃいますから。

今年もカレンダーは、残り4枚になってしまって。。。慌ただしさを感じる今日この頃です♪

本日の教室の写真をUPしてみます。

Photo_2 

起業秘話 その後(1)

最近パソカレッジFCの問い合わせが多くなりました。

パソカレッジの起業苦労話をご覧になって、安心される方もいらっしゃるのではと思い、起業秘話の続きを何回か書いて見ます。

3月はマミオン(有)の決算月。4期の終了を迎えます。2003年5月にマミオン(有)を立ち上げて4年が経ちました。業績は少しづつ上向いて来ています。。

事務所スペースを借りるべく不動産屋さんにあたっていましたが、教室の側に借りる事が出来ました。少し仕事をやり易く、請け易くと思い実行に移しました。

2003年にマミオン(有)を立ち上げて、マミコは独立致しました。

目白校はそれなりに廻っていましたが、馬場校の労働給付金に頼ったは営業は、給付金制度の枠が縮小された事により、何処の大手のパソコン教室も同じ現象だとは思いますが苦しい台所が続きました。

独立をした一年後位から、スタッフ達の給料や(僅かなボーナス)を支払う事が出来ても、itoitoもマミコも給料は取れなくなったのです。

自宅にそのまま住む事が出来た事、それに係る諸々の諸費用が、そのまま夫名義の口座から落とされていたから、食べる事の心配だけでした。少しの蓄えで何とか切り抜けてきましたが、蓄えも底をつきそうな感じがして参りました。

半年以上収入のない日が続き、いよいよ教室のどちらかを手放そうと決心をしたのです。この時に、上手く廻っている目白校ではなく、馬場校を残す事に心の中では決めていました。

これは他の仕事が廻るようになった時に、目白校は20時がビルの閉店の時間だったから残業が出来ない事が大きな要因でした。

ただ、手塩に掛けた目白校をなくす事は、断腸の思いでもありました。

この後に目白校の入っている、ビル取り壊しの話が来ました。考える事もなく気持ちは、馬場校1校にと言う事に決まりました。

馬場校1校にする事によって、itoitoが馬場校に入れます。人材のロスも少なくなるであろうと。そして、その余力でユーザビリティの業務も一本の柱に考えようと思いました。

パソコン教室経営・フランチャイズ運営・ユーザビリティとこの時を境にマミオンは、3本の柱を立てることに全神経を傾けました。

会社を立ち上げる為には、会社の場所が必要となります。パソカレッジの教室の場所は夫名義でしたから、新たな場所が必要となり、近くのマンションの1室を事務所として借りました。

印刷機だけを置いた事務所でしたが、一年後にはこの事務所を引き払い、パソカレッジの場所に会社登記を移転する事ができました。

誰も私達の経済的困窮な状態に、気が付かれた方・スタッフは居なかったと思います。

そんなitoitoの負けず嫌いが、今迄やってこられた原動力かも知れません。

こうして、目白校を閉じ馬場校に合流すると言う計画は実行に移しました。

その直後に母が亡くなり、itoitoは葬儀参列だけと言う母には申し訳ない事を致しました。

「新しい人に変わると、こうも生徒さんが増えるものかしら?」と目白校と合流した後、馬場校の生徒さん達は仰いましたが、必死になると何とかなるものではないかと、その時のitoitoの心境です。

パソカレッジ起業秘話(15)

会社を立ち上げました。
不慣れな事で法務局へ登記に参りましたら仏滅だったり(笑)勿論、大安の日に出直しです。素人の母娘がする事ですからこんなお粗末な顛末記です。

教育・共育なるものですが、大変意義のある仕事だと思います。良い教育現場には人が入って来ます。特に中高年の方達は楽しく、苦にならない現場を好まれます。『金儲け第一主義で教室運営をするなかれ』と言うのがitoitoの持論です。

人が入れば自ずと運営は上手くいきます。良い教育現場を作ると言う事を先ず念頭においていただければ教室運営は問題なく成功しますよと断言出来ます。

この回で企業秘話は終わりにいたします。最後に気持ちをこめて立ち上げた目白校の閉校について書いておきます。

2005年3月末で目白校は閉校と致しました。今も目白教室の窓の張り紙をみてお電話を頂きますし、新しいビルが建ったら帰ってきて欲しいと言う話が出ます。伝説にもなったパソコン教室目白校ではありますが目白の地に再び戻る事はありません。

入居当時の話ですが閑散としたビルでした。テナントさん達はビルの経営が悪いと仰っていました。

経営に関しましてitoito全くの素人ですが、その時管理事務所の方に「パソカレッジが必ず人を運んで来ます。人は待っていても来ませんから、このビルに人が来る為の努力を致します」と申したそうです。

「パソカレッジさんが入られて、新しい人たちがこのビルにやって来られ、有り難いと思っています」と他のテナントの方達の声が伝わって来た時は嬉しかったですね。

中高年の方達が時代の波に乗られるお手伝いも致しましたが、ビルの活力剤ともなった訳です。
お元気を取り戻された中高年の方達を拝見し、社会に貢献している事を嬉しく思っています。

2004年夏にビルの取り壊しの話が突然来ました。4年間借りていましたがこの間ビルの更新料の請求がない事も気になっていましたので、正直な所「来たな!」と言う感想でしたね。

回りくどい言い方をされていましたが、近い将来このビルが取り壊され新しく建つ事は直感でわかりました。

譲渡先が何処かと言うよりも、生徒さん達にどう説明をするかと言うのがitoitoのなかでは一番の問題でしたね。

管理会社・仲介業者の方に、出て行かなければならない半年前に、出来れば切りの良い時期、これが何時になるかを教えて頂きたいと伝えました。

切りの良い時期と言いますのは教室ですので卒業式などに合わせて終わる事が出来れば良いなと思ったからですが。

半年前と言いましたのは閉校にあたっての準備期間がそれ位必要だと思ったからです。

ビルの管理会社・譲渡の仲介業者の方に「パソカレッジはこのビルでは大変世話になった事、今の成功の元がこのビルで始めた目白校だったこと等を伝え、此方側から無理難題を持ちかける事はない」と伝えたのです。

半年前が春先5月頃の予定と言う話が秋にきましてからは、マミコと二人極秘で閉校に向けて準備を始めました。

先ず閉校日を卒業式のシーズンに合わせて3月末に、そしてお別れ会の会場を決め全ての準備は事細かく失敗をしない事を頭に動きました。

この時一番動揺したのは目白校のスタッフではなかったでしょうか?

生徒さんに何時の時点で閉校する事を伝えるか悩みましたが、12月末にはビル取り壊しの噂が教室内でも出て来ました。

知らぬ存ぜぬでは余りにも無責任ですし、隠すにも限界を感じましたので、翌年の年賀状に教室閉校の話を記載しお別れ会の案内、チケット未消化の方達に消化のお願いなどを書いて出しました。

1月1日の配達を避ける為12月30日に長女に自宅近くからの投函を頼みました。

如何いう反応が出るかが問題でしたが、テナントの方達の無言の苦情は精神的にも辛かったです。マミコと二人だったから頑張れましたが・・・

私共は生徒さん達がガッカリなさらないようにとの配慮から「パソカレッジ付属目白小学校は卒業です。春からは付属馬場中学へ全員進級ですよ。中学生ですから電車通学になりますが問題ありませんね」と元気良く申しましたが、

ビルのテナントさんの中には店を閉じることを余儀なくされる方もあると伺い、それ以後は「馬場校に進級ですよ」と言う皆様の心情を逆なでする言葉は使わない事にいたしました。

皆様馬場校に通われるのですか?と言う質問を頂きましたがitoitoは「0人だと思っています。新規開拓を致します」と答えましたが。

4月の声を聞き、それ以後続いて通われた方は100名を越しました。有り難い事だと涙が出ました。馬場校では入れ替えなどもあり目白校の方を4月4日から開始、と言う形にしました。4日にいらしてくださった方の顔を見たとき、本当にほっとしました。そして、次々といらしてくださる皆様に心から感謝しました。

僅かな経営の経験から学んだ事ですが、何かを決める時、早い決断が成功の鍵でもあり失敗を少しでも食い止める事になることを。

経験が浅いitoitoは勘で勝負するような所があります。外していないから良いようなものですが。

2校を1とつにまとめた事により、教室外の売上を伸ばす為に動く事ができました。
ウェブユーザビリティに力を注ぐ事ができ、先を読んだ経営をする準備ができました。

しかし、この元は教室に通われる生徒さんがあってこそだと思っています。

取り合えず起業秘話はこれで終了致しますが、今後もパソカレッジはワクワクを皆様にお伝えして参ります。

パソカレッジ起業秘話(13)

12話で2003年10月にFCの第一号が開校したと書きましたが訂正致します。

2002年10月「パソカレッジ香里園校」
2003年7月「パソカレッジクラブ西村教室」
2003年10月「パソカレッジ鴻池新田校」
2004年2月「パソカレッジクラブ拝島校」
2005年1月「パソカレッジクラブ荻窪校」
     3月「パソカレッジクラブ大分校」
     5月「パソカレッジクラブ宝塚校」
     10月「パソカレッジクラブ久留米校」
2006年1月「パソカレッジクラブ浅草橋校」が開校致しました。

この「パソカレッジFC」と「パソカレッジクラブ」の違いですが現在募集しているのは「パソカレッジクラブ」の方です。
小資本で少リスクで開校して頂きたいと考えたFCが「パソカレッジクラブ」です。パソコンの台数も5~6台まで。

パソカレッジFCですが今は香里園校も鴻池新田校もありません。
大きな資本を掛けてパソコン教室を開く時代は終わったと言えるかも知れません。

今、シニアの方たちが求めているパソコン教室は家庭的な雰囲気・優しさを持った教室ですね。

パソコン教室の市場としては未だまだ有ると考えています。
50歳代以降の年代の方にはパソコンが全く使えない方、少しは出来るが本質的な部分がわかっていない方が沢山いらっしゃいます。

最近ブログを友人に勧めていますが、パソコンが其処まで使えない人が圧倒的に多い事を知りました。
周りに使える人がいたから使わなくて済んだ、と言う方が多いのです。

第一陣の波は目白校立ち上げの時に通われた方達ですが、第二陣.第三陣の方達が待機しているような感じですね。

それ位シニアの方達は、新しい事に対して慎重と言うか臆病です。

後から背を押してあげる役目の教室が必要とされています。

此処数年、新聞やTV・雑誌などでパソカレッジがシニア向けのお教室である事を取り上げて頂いています。
世の中、シニアの方達の動向が気になるようです。シニアが楽しく通える教室と言う事で、パソカレッジは関心を持たれているようです。

2003年5月20日。マミコは父の元から独立しマミオン有限会社を立ち上げました。
一国一城の主になったマミコですがitoitoは同じ日の朝、離婚届を提出いたしました。

一口に言いますと経営者の夫と現場監督のitoitoの考えが違って来たと言うことが原因でした。
「熟年離婚」と言う言葉を耳にする昨今ですが、ハシリと言えるかも知れませんね。(苦笑)

父からマミコの新会社への出資はなく、会社の登記もインターネットで調べながら致しました。教室の近くに借りた事務所で当日の夜はささやかな事務所開きをしましたが、この日を境に実質的に「母と娘の起業」が始まる事になります。

教育の現場は営業や理屈では解決出来ないものがあります。
人には「心」が存在しますから・・・

パソカレッジ企業秘話(12)

寝不足です。今朝は早くからTVの前に釘付けになりました。フィギュアのフリーを見る為ですが。

夫は昔「人を残すは上、物を残すは中、金を残すは下」と言う言葉を申しておりました。

スポーツは記録も残しますが、観る人の記憶に残ります。
そう言う事ではとても素晴らしい事だと思います。

企業が残すものはお金であり、物ですが、そのお金の中から選手を育てると言う事になります。企業あってこその選手育成です。

良い施設・良い人材に投資を惜しまない企業になれるよう頑張りたいとオリンピックを見て感じました。

その人材について再度書いて見ます。

パソカレッジのスタッフは学生が多いと書きましたが、超初心者の方たちをお教えするのであれば、資格を振り回すインストラクターより、優しい孫のような感覚での学生インストラクターの方がお互い上手く行くのではと、マミコの若い感覚で始めました。

これは正解だったと思います。

只、中には家庭教師に毛が生えたような学生に教えられるのは、トンでも無いと思っていらっしゃる方もいますね。

初期の頃ですが、或る女性のご年配の方が、当方の信頼できる学生アルバイトT嬢に向かって
色々プライベートの事を聞き出して来ました。

その頃のスタッフ用マニュアルの中には、こんな風に聞かれた時の答え方なども用意してありました。

1.「職業は?」ときかれたら素直に「学生です」と答えましょう。
2.「経験年数は?」ときかれたら、「適当に誤魔化しましょう」と書いていました。(笑)

今の生徒さんでそんな質問をする方はありません。
そんな質問を出せるような雰囲気がないからですが。

或る妙齢の女性はT嬢に「貴方バージン?」と聞かれたとか、頭の良いT嬢は鋭い切り返しで真っ向勝負に出ました。

その女性は最後の切り札のような捨てゼリフで「貴方のような頭が良い女性は、得てして結婚出来ないものよ。女性は可愛くなくっちゃね」と。

色んな方に通って来て頂いていますが横綱格の記憶に残る生徒さんです。

学生達は採用が決まった時点から研修に入って鍛えます。
資格は持っておりませんが柔軟な頭と、吸収力で物の見事に期待に応えてくれますし、多く採用したバイト生の中で残る学生は優秀な者だけですね。

そんなスタッフがパソカレッジの財産です。

何を聞かれても答えられると言うのも優秀なればこそです。

若い学生と、ご高齢の生徒さんのやり取りを見ていて「異世代交流会」を思いついたのですが。

2003年7月には「第1回異世代交流会」を開きました。
若い方たちにはシニアの豊かな経験話を聞いて欲しい。中高年の方達には今の若い方たちの仕事に対する考え方、物の見方、IT業界の様子など普段見聞き出来ない部分を大いにお互い語って欲しいと思った訳です。昨年7月には3回目を開きました。

そしてこの年の10月念願であったFC(フランチャイズ)が第一号が大阪・香里園に開校になりました。

次はFCの行方・新聞で取り上げられ始めた事・マミオン(有)の独立について書いてみます。